「実学とは」との問いに誰しもが福沢諭吉を想像されることだろう。
そこに代表されるのは慶應義塾であろう。
しかし、その「実学」というものは学問を指すのだろうか。
慶應義塾大学には以下のように書かれている。
”福澤がいう実学はすぐに役立つ学問ではなく、「科学(サイヤンス)」を指します。実証的に真理を解明し問題を解決していく科学的な姿勢が義塾伝統の「実学の精神」です。”
(大学hpより)
学問を指してはいない。
科学を指している。
では科学とはなんなのだろうか。
我々が思うのはきっと最近の科学の意味合いが強く、それ以外を疑わないだろう。
今の科学は19世紀に成立した意味合いが強く、どちらかといえば学問形態を指す。
そこに着目すると、科学は
自然科学や地球科学といったものまで入ってくる。
ここで疑問が生じるはずである。
慶応義塾大学の設置当初には、学問体系整ったものがすべて入っているわけではない。
そのことが重要なのである。
そう、そこに当時の科学の意味がある。
そのことを参考に論文を探して読むと
「実学は、自然科学だけではなく、社会科学や人文科学を含めた実証科学のことであり、事物や真の実証的な学問を通じて「分かる」ということにでもなるかもしれない。」
実証科学に基づいて理解される真理は、「問題発見と解決策」というものが1つのツールに頼ることなく、幅広く学際的に取り組むことが示されているのではないかと思う。
私の指導教員であったT博士は、しばしばこういった。
「まずはやってごらんなさい」
「そこから見えてきたら教えてほしい」
専門は地理であるため、そのツールにはこだわりはなかった。
最近の流行はデータサイエンスであろうか。
学問的には、実証されているし、統計的にもそれなりに意味のあるものだと思う。
しかし、「問題の発見」が数的要因で明らかなものであるならば、それは正しく表現されるが、日本人の傾向や特徴や売り上げが伸びる前の社会的な要因を無視して行えば、ツールにおぼれてしまうかもしれないと思っている。
データサイエンスはまだ始まったばかりであるが、数的根拠の正しさが100%という考え方になってしまうと、定性的に表現される性質の要因は議論されずに葬り去られてしまうのではないかと思っている。
我々の惑星は不確かなことが数多く存在する。
新型コロナも突然始まった。
カオスの世界でどれだけ数的理論が正しいのだろうか。
実学という福沢諭吉の発想がもう一度再考される時かもしれない。
我々研究者は「一人学際的」に多様なツールを駆使して多様な視点から物事の真実を明らかにしていく必要があるのかもしれない。
【参考】