普段ありふれた自然はある。しかし、その自然は、過激なまでに生きている。極希に、自然の仕組みが美しいというHPなどがある。
「仕組み」「美しい」は我々人間が一方的にある範囲で決めたルールや個々の主観に基づいた判断で示されている。
自然は美しいのは間違いない。
しかし、仕組みが美しいかどうかは数学的であったり、形態的である。形態的なら皆さんも良くわかるはずで、カエデの葉の形は多様ではあるが、それぞれに個性を持ちつつも統一された形であるから美しいというような考えをもつ方もいるだろ。
しかし、仕組みが美しいの甚だ疑問をもつ。
食物連鎖は美しいだろうか。
災害は美しいだろうか。
環境変化(温暖化)は美しいだろうか。
美しいのはoutputとしての自然の姿が美しいのであって、その始まりであるinput、そこから始まる過程のシステムは、美しくはない。美しいのは極希に存在するアウトプットとして得られる美しさにある神秘さが認められる過程である。
仮に、「自然の仕組み」が美しいのであれば、誤った環境の概念が植え付けられ、過保護的な自然保護政策が推奨される。
いわば外来種は「悪」であることを歴史を無視して思考が確立され、ある一部の思考で環境観が誕生してしまうはずである。
自然には気持ちも意思もない。
ただ単純に、ある地球の法則にしたがっただけである。
そこに美しさはいらない、正しいルールと頻繁に現れる例外的なルールを明らかにすることがたいせつであろう。